2年ぶりの帰省
前日の契約交渉で疲れ切った体を引きずるかのように帰省の準備を始めた。
今回は1週間、実家に滞在することになる。
従来は新幹線で帰っていたが、出来るだけの経費節約のため、帰省は高速バス、帰京は飛行機にした。
21:50出発前の東京駅八重洲南口バスターミナルはかなりの人でごった返していたが、
それは草津へ行く時の新宿バスターミナルと比べてのこと。
通勤ラッシュの東西線に比べれば手際よくそれぞれがバスに乗車していった。
普段なら夜行バスだと眠れないのだけど、
途中休憩でいったん下車した足柄山のサービスエリアを過ぎた後、
京都を過ぎるあたりまで熟睡していた。
7:55に三宮バスターミナル到着予定だったバスは、ほぼ同じ時刻に着いた。
神戸の空は晴れ渡っていた。
数年ぶりの三宮は丸井などもできて、学生時代、日夜訪れていた面影はない。
もうすっかり僕は東京の方に住み慣れてしまったのだと実感した。
ターミナルからJR三宮駅は目の前だったのに、記憶にない経路でたどっていったので、1分もかからない移動が10分以上かかってしまった。
駅界隈も山陽本線の下りの列車も予想以上に人が少なく、まるで年末年始の東京のオフィス街のようだった。
電車では南側の窓際を確保し、魚住駅までの道のりは、過去との違いを車窓からの風景で確認しながら過ぎていった。
・阪神大震災震災後、商店街が住宅にかわってしまった長田駅周辺
・舞子駅前後から見える、子供の頃にはなかった明石海峡大橋
・朝霧駅はかつてすぐ側で明石海峡と淡路島の島陰を唯一ホームから眺められるところだったけど、埋め立てのため、その絶景はなくなってしまっていた。
・明石駅からは私鉄山陽電車がJRと同じ高架になった他、あまり変わってはいない。
ただそれは車窓から見る限りで、後日下車した時の景観は別として。
1995.1.17の震災前後ではこの区間は変わらざるを得なかったのだ。
明石駅からは各駅停車になる。
・賑わいを見せていた西明石駅からの風景は一見なんの変化もないように見えたが、
QBBチーズ工場の跡地は平地の駐車場になっていたり、
古い木造の家が密集していたところは、新築の住宅に変わったりしていた。
・かつて神戸製鋼の工場しかなかった大久保駅は、その後に作られた高層マンションやショッピングセンターが林立し、
まるで市の中心地かのようになっていた。
東陽町のイースト21や秋葉原駅などでしか見たことのないヴィ・ド・フランスというパン屋ができていたり、
まるでこのあたりだけは木場の深川ギャザリアを移築したかのようになっていた。
・そうこうして次の駅が下車する魚住駅になるのだが、この駅の南側は何も変わっていない。
駅入口が北側にしかなかったのが高架橋に改札口が移り南側からも乗降できるようになったこと以外は。
魚住駅を降りた駅前のロータリーでは父が車で迎えに来てくれていた。
ここ数年の帰省はいつもそうだった。
実家に到着して一段落した後、早速予定していた作業にとりかかった。
まずは僕が滞在中寝起きする部屋にテレビの配線をすること。
それとかつて僕の部屋だった姉の部屋のテレビを配線すること。
そして母と父のパソコンを修復することなど。
1日目はそんな作業をしていて過ぎていった。
夕刻になって父のおごりでくら寿司で夕食を摂ることに。
これは前回の帰省時と同じか。
この日は父の実家だった加古川と、母の実家だった山崎へ墓参りに行ってきた。
今回も軽四に乗って、行きは父が、帰りは僕が運転することになっている。
加古川では子供の頃から会っていない父の弟である巌のおっちゃんとおばちゃんに顔合わせしたりしたが、太ってしまった僕から挨拶しないと僕とは気づかなかったみたいだった。
原家の墓地は播磨平野の農地の真ん中にポツリとあって、この場所は何一つ変わっていなかった。
多分これからもそうだろう。
しばらくして次は母の実家である橋本家の墓へと向かったのだが、
子供の頃は姫路からバスを乗り継いで1日がかりで訪れていた山崎(旧宍粟郡山崎町、現宍粟市)は車で1時間もかからないほど時間的に近くなっていた。
これは自動車専用道路が拡充されたためだ。ただ車の数は少なく過疎化が進む田舎に採算の合わない道路が造られたからなのだけど。
橋本家の墓も原家の墓と同じく中心街からはずれたところにあり、付近は変わりようがない風景だった。
ただ山崎は造成工事が行われていて、墓地はまるで山沿いの傾斜に郊外住宅のようになっていた。
帰り際、子供の頃夏休みにいつも滞在させてくれていた茂のおっちゃんの家へ立ち寄った。
途中、町中に入ったあたりで藤の花祭りをやっていたが、車から見る限り例年のこの時期とは違い、まだまだ満開という状況ではなかった。
おっちゃんの家へ到着したが、いつも僕等の世話をしてくれていたいつも元気だったおばちゃんは脳を患い施設に入ったままで、茂のおっちゃんは一人暮らしをしている。
その後軽く挨拶をした後、来た道とは違う経路で帰ることになる。
これは加西市にとよだというお好み焼き屋があり、いつもここで昼食を摂るからだ。
そこに到着したのが午後2時くらいだったので、僕等の他に客はまばら。
僕は豚玉にしたのだか父母は空腹で待ちきれず、焼きそばとお好み焼きとは別に関東煮(所謂おでん)を選んでいた。
しばらくして父が注文した焼きそばが出てきて僕も半分いただいた。
僕は大学の後半2年間、お好み焼き屋でバイトをしていたから知っているのだけど、焼きそばとお好み焼きでは調理時間が全然違う。
焼きそばが2分くらいで出来るのに対し、お好み焼きは5分以上かかるのだ。
2010-12-22 のブログにも書いたけど、お好み焼きの調理方法は揖保川を挟んで異なる。
母の実家があった山崎は揖保川の西側になる。この地域以西は広島風。
加西市は完全に揖保川の東側になるので明石と同じ調理方法になる。
ここで大阪と書かないのは大阪と明石の間でも調合が変わるからで、これもブログに書いたので説明は割愛する。
兎に角このとよだは確かに遠回りしても立ち寄りたい穴場なのだ。
午後3時過ぎには家に到着し、留守番をしていた姉の薦めでアクトスというスポーツセンターへ行くことになる。
1週間体験コースで\2,625。ここではジム機材の他19:30からピラティス、エアロビクス、ヨガなどのプログラムがあり参加したのだけど、
普段まったく体を鍛えていない僕の体は悲鳴をあげながらも滞在中通うことになった。
門仲在住の頃からスポーツセンターに通っていた姉は、子供の頃とは逆転して、僕が完全に運動音痴になっていた。
この日は父と明石散策。
かつて小学3年まで過ごした明石東部の人丸前まで、母が用事のついでに車で送ってもらい大蔵海岸公園へ歩いていった。
淡路島は連日の雨で黄砂が少なく、島陰は青々としていた。
ここには父が植えた記念樹の松があるとのことで、ひとつひとつ探したのだが、なかなか見つからず、ほぼあきらめようとしたところでネームプレートが見つかった。
目印はこの55と書かれたポールになる。
その後、浜国(国道28線)を渡って僕が幼少期を過ごした大蔵本町へ行くことに。
当時の借家はもうなく、ビー玉などで遊んだ路地裏もアスファルトになっている。
ただ隣だった小田さんの家は当時のままだったので、父に「ここ小田さんまだ住んどるで」とか言っていたら、
小さい頃何度も預かってくれたおばちゃんが玄関から出てきた。
もう80歳を越えたおばちゃんだったけど、とても元気でしっかりしており
僕が「ご無沙汰してます。淳です。」と言ったら直ぐに思い出し「あー淳ちゃんやん。面影あるわー」と懐かしがってくれた。
小田さんだけではなく、当時両親が共稼ぎだったので、近所の人たちは母が帰るまで僕を預かってくれたのだ。
それどころか我が子のように優しくしてくれた大蔵本町での日々は今の僕にとっても一番の宝物のような思い出になっている。
しばらくして子供の頃一番賑やかだった大蔵市場まで足をのばした。
そこはすっかりシャッターだらけになって、かつての繁栄はかけらもなかった。
その後、氏神にあたる稲爪神社へと向かった。
ここはいっぱいの思い出がある。
祭りになれば屋台がならび、その時の事は小学1年の時に作文にして文集に選ばれた記憶がある。
兎に角、大晦日は大蔵院で除夜の鐘を突いた後、初詣に来ていた神社だった。
僕が門仲に居心地よく住んでいるのも、この頃の界隈と似ているからかもしれない。
お参りを済ませて北側の門から国道2号線を渡り、休天神へ。
ここは3年間通った人丸小学校への途中にある。
ここでも祭りの時は賑やかで、当時僕等は灯籠を作って明かりをともしたり、野外映画を観たりした場所だった。
ここからこの日の1番の目的地である明石市立天文科学館へ。
っが!なんと休館日になっている。
Webで調べた限りそんなことは無いと思っていたけど、入口には「月曜日が祝祭日の場合、次の火曜日が休館日になる」と書かれてある。
仕方がないのでここはあきらめて、裏にある急な階段を上ったところにある柿本人丸神社へ参詣。
いずれにしても明石というところは歴史遺産の宝庫でもある。
源氏物語に登場する明石の君もこの場所からきている。
ここで父が「トイレへ行きたい」と言ったので社務所で聞いてみると「階段をおりた公園にしかない。」と言われ、息を切らせて上った場所から下っていくことになった。
本来はこの天文科学館の裏道から明石公園へ行くのが最短だったのだけど、とりあえず表の道から向かうことに。
長い距離を歩いたし小腹も減ってきたので「路」と言う喫茶店でブランチを摂ることにした。
ここで一服した後、明石公園へ。
一番の目的は明石城の鳥瞰図の絵画を見つけるため。
その前に城跡の石畳を上り詰めたところにある市街を見下ろす絶景ポイントへ
あまり天気がよくはなかったけど、この風景は何度来ても開放感がある。
そして
・大蔵本町の近所の子供で何度も来たこと
・人丸小学校の運動会が園内の陸上競技場で行われたこと
・中学時代テニス部の大会で1勝もできなかったこと
・夏の甲子園の県大会決勝で園内の第1球場にて母校兵庫県立明石南高校が初めて優勝したこと
・友人の中野に紹介してもらった兵庫県立明石高校の女の子とデートしたこと
・浪人時代にこの公園の奥にある明石市立図書館で受験勉強したこと
・また中学高校と同級生だった女の子とデートしたこと
・大学時代に付き合った女の子と頻繁にいちゃいちゃデートしたこと
などなど数え切れない思い出がここにはある。
その後、天守台(平城のため天守閣が建てられたことはない)を抜け剛ノ池に沿って歩いた。
その道すがら広場で小学生がキャッキャ騒ぎながら遊んでいた。
どうやら遠足らしく子供に「どこの小学校?何年生?」と言ったら「伊川谷小学校2年生!」とのこと。
小さな子は何が無くても開放感がある場所ではみんなと遊ぶ術を身につけているのだ。
そんな光景を見ていると福島の子供たちの対局にある立場が哀れにも思えてきた。
その後、テニスコートを抜けて明石城の鳥瞰図の絵画をみつけるため図書館へ。
ここは県立図書館と市立図書館が隣接している。
とりあえず朧気な記憶で県立図書館へ行ってみたが見あたらない。
学芸員の人にも聞いたがわからないとのこと。
調べてもらって見せていただいた絵画は全く別物だった。
ところが1階に降りたロビーに行ってみたらまだ飾ってあるではないか。
これぞ明治時代に取り壊された江戸時代の明石城の原型である。
もともと江戸幕府の直轄地でもあり松平家の居城だったところなので
とてつもなく大規模な城だったのだ。
その後、隣の市立図書館へ行って、浪人時代に毎日受験勉強をしていた閲覧室を見に行ったが、
すでにそのスペースは無くなって本の貯蔵エリアに変わっていた。
学芸員の人に昔のことを尋ねたら倉庫から資料を取り出してくれて、当時の図面を見せてもらった。
こうやって何もかもが時代に合わせて変わっていくのだ。
図書館を後にして父が植えた剛ノ池沿いにある記念樹を探しに行った。
小さな苗は既に2メートル以上になっていた。
春を伺わせる花壇を横に公園を出て、魚の棚商店街へ向かった。
ここは関西では京都の錦市場、大阪の黒門市場と並ぶ3大市場のひとつ。
特にこの商店街は明石漁港に隣接しており、海産物の地産地消のメッカでもある。
明石土産を買うならここに来るとなんでも手に入る。
この日は、「今はたこせん、かつては子午せん」と言われる両方の煎餅とくぎ煮を買った。
東京で言うところの佃煮と製法はほぼ同じなのだけど、くぎ煮はいかなごがメインなのでちょっと違う。これがまた日本酒や白米に合うのだ。
しかし、探していた地酒江井ヶ島酒造の神鷹が見つからない。
結局見つけたのは明石駅高架の下にあるスーパーだった。
買い物も終わり電車に乗って魚住への帰路についた。
魚住駅に到着したが1時間に1本のたこバスを待つには中途半端だったので約1.5キロの道のりを徒歩で帰ることに。
途中でご無沙汰している高校時代からの女友達の家に立ち寄り、そのおかあさんに僕の連絡先を書いた名刺を手渡した。
彼女は既に大阪へ嫁いでおり、魚住にはいない。
かなり長い距離を歩いたので父はちょっとお疲れ気味。
僕は日課になっているアクトスへ姉と一緒に向かった。
この日は家中の不具合を修正する一日。
まずは電話の子機の調子がおかしいので買い換えるためケーズデンキへ。
ここではスマホが大活躍。
というのも店員が勧める商品に対して目の前でアマゾンでの金額を見せて値切ることができたから。
後、帰省中に僕のPCが壊れてしまったので、取り出したハードディスクの外付けケースを購入。
それと使わなくなっていた母のPCのマジックで書いた覚え書きを消すためシンナーも購入。
その後、携帯の契約を見直すため駅前のAUショップで契約の変更を行った。
帰宅後、PCのデータを移行していたら夕刻になったので
アクトスへ。
この日は朝から草抜きをするため、父と石ヶ谷墓地へ。
この墓地は父が我が家の墓地として購入している所。
墓石は建てていないので敷地の草抜きと場所の確認のためにだった。
帰宅後、昼食を終えて先日行けなかった明石市立天文科学館へ
大人 700円のところ、父は高齢者手帳を見せて、ちゃっかり半額で入場。
14:30のプラネタリウムまでには30分以上時間が合ったので14階の展望台へ。
ここは高台の上のそのまた上にあるので東は六甲山、西は小豆島、南は淡路島、北は雄岡山・雌岡山など360度この周辺を一望できる。
4階の日時計広場や3階の展示室を見て回った後、プラネタリウムへ。
阪神大震災でこの建物も被災したのだけど
日本最初のプラネタリウム(ドイツ製)は致命的な結果を免れたのだ。
今回のテーマは「〜明石で282年ぶり〜金環日食を見よう」
晴れていれば5月21日の朝に観ることが出来る。
場内が暗くなってリクライニングに座って天井を眺めていたのだが、かなり疲れていたのだろう。
父は暫くして眠りに入った。それだけなら何もしないのだけど、流石にいびきをかき始めたので鼻をつまんで起こした。
帰りに僕は子午線が印字された長袖Tシャツを購入してこの施設を後にした。
その後、神戸新聞に記載されていた大蔵郵便局が子午線郵便局として移転する場所を確認したり、
平氏ゆかりの場所をぶらぶらしながら駅へと歩いていった。
帰りに僕と父は明石駅のステーションプラザ東館にある道場で一杯ひっかけてから帰路に。
魚住駅に着いたら、またバスの時間までしばらくあったので、父が購入していたタクシー券で自宅まで帰った。
この日はアクトスの休館日(木曜日)だったので今回初めて家風呂に入った。
と言うのもアクトスにはサウナ付きの浴場があったから。
なのでこの日は4人そろっての姉の手作り料理で夕食に。
この日は鉄板パーティーに必要な具材の仕入れで母に近場のいい店まで連れて行ってもらった。
勿論、関東に比べればセシウムの影響が少ない地元でとれた野菜(キャベツ、ネギ)をはじめとして
オリバーソースなど一通り買いそろえた。
持ちきれない荷物を段ボールに詰め込んでクロネコまで運んだ後、帰京準備をやり終えた。
うちの畑で採れたサヤエンドウとかは父と母が筋を剥いてくれて持って帰ることに。
次の日は朝が早いから「アクトスへ行かない」と言ったら
「30分だけでもいいから行ってこい」と姉に言われたので、何時もより早めに出て2時間ほど汗を流してきた。
帰京の日、姉に駅まで送ってもらい5:30発の電車で三宮へ
そこからポートライナーを乗り継いで神戸空港へ。
門仲に着いてから、その日の夕食の食材や鉄板パーティー用の具材(バラ肉、小エビ)を赤札堂で買い込み、
部屋に到着後、荷物の整理や洗濯などをしていたら夕刻に。
前日送っておいた宅急便が20:00過ぎに届き鉄板パーティーの仕込みに取りかかった。
この日は鉄板パーティー。
18:00頃から始めて、何時も通りまったりしていたら
予想外で僕のサプライズ誕生会になった。
みんなありがとう。
そうなんです。
僕は戸籍上5月5日が誕生日になっているけど、本当は5月6日なのだ。
こうして僕の大型連休は無事終わることが出来ました。
おしまい