新大塚物語

 

僕が最初に東京へ出てきて住むことになったのが新大塚。

まるで関西(当時姫路の社会福祉法人広畑学園の非常勤教師で住み込みをしていました)から逃げるようにして出てきたのです。もぐりこんだのは姉のワンルーム。その時は自分の人生がどうすれば終わりになるんだろうって事ばかり考えていました。

とりあえず、くいぶち探しをして勤めることになったのが飯田橋のカレンダー印刷の補助。

暫くして僕は無計画にも姉の部屋を出て行きました。

それは電気を消した後で姉が足上げ体操をやっていたら、寝ようとしていた僕がいきなり逆上して「えーかげんにせーよ」と立ち上がり、カバンに持ち物つめて出て行ったから、姉のセリフはほとんどなかったほど一瞬のことだったようです。姉によると僕はふだんから寝つきはいいし、あれが初めてではなかったし(おまけに姉は僕のCDが鳴る時刻に毎朝一回起こされて寝直すのを文句もいわずと受け入れていたし)、「なんや、これ?」状態で取り残された状態とのことです。姉にとっては母に対しての責任もあって心配なので、原信(カレンダー屋)を通りの向こうから眺め続けて姿を探したとのことです。


夜の1時をまわっていてカバンひとつを担いで当てもなく街を歩きました。

暫くして護国寺近辺の公園のブランコに腰掛けて宿無しになった自分がまるで等身大に初めて戻れたような気がして笑いがこみ上げて来ました。

当時はまだバブル真っ最中。友人達はその恩恵のもと生活基盤を築いていった頃でした。

とにかく有楽町線の始発が来るのを待って始発電車に乗り込み9時になるまで電車の中で眠り続けました。いずれにしてもアルバイトを続けていかなければならないことと、もう直ぐ冬が来ることも含めて、仮にでも部屋が見つかるまで僕が取った手段は池袋のカプセルホテルに泊まり、そこから飯田橋へ通うことでした。

暫くして川上さん(アルバイト先のおやじ)から「お前根性あるなー」と言われて、「何のことですか」って言ったら、実はアルバイト先の事務所に「鍵も持たずに飛び出したから、帰ってきたかったらいつでも帰っておいで」というような手紙つきでコーンフレーク(当時僕の朝食でした)の箱2つの間に部屋の鍵を挟んでいた小包が届いていたのでした。

このことはアルバイト先には言っていなかったのですが、このことをきっかけにして川上さんが僕を見る眼も変わっていったのです。川上さんについてはここでは書けないような逸話を聞かせてもらったり、当時流行っていた競馬のやり方も教えてもらいました。そうオグリキャップ全盛期の時代です。

結局アルバイトに追われていた僕の代わりに姉が部屋を探してくれることになり始めて東京で一人暮らしをすることになったのが「新大塚荘」。文字通り新大塚駅の階段を上がったところにあるアパートでした。4畳半の部屋で風呂はなく、トイレも共同。住人の殆どは東南アジアや中国出身の人ばかり。当時の日本人なら決して住まないだろう思われる家賃18000円の部屋でした。

その頃の僕には大学卒業後P&Gの第1次幹部候補生として優遇されていたことなどのプライドは無くなっていました。当時、僕には付き合っている娘がいて、彼女は月1回僕に会うため大阪から東京に出てきてくれていました。彼女が初めて僕の部屋を見てやったことは部屋の大掃除。別に荷物もない部屋だったけど、バルサンをかけたりして、兎に角清潔な部屋にすることだったみたいです。それもそのはず、僕が西宮(近くに甲子園があるところ)に住んでいた部屋とは想像もつかない寂れた部屋だったからでしょう。ちなみに西宮では当時としては珍しいオートロック付の大型新築マンションでしたから。それに自家用車として新型シビックを持っていたし。

こう書くとスラム街のように思えますが、決してそんなことはなく建物は古いものの一階に大家さんが住んでいたこともあって、結構清潔でトイレはいつもピカピカで4畳半とはいうものの収納スペースが多く住み心地は良かったのです。

なので、僕にしてみればその部屋は1年暮らすには充分でした。

立地条件が良く、多くの友人が泊まりに来てくれましたから。

アパートから駅へは歩いて20歩。銭湯はアパートのすぐ裏にあって殆ど離れにある風呂に行くのと変わりない便利さ。コインランドリーも併設で。その途中には僕が冷蔵庫代わりと言っていたコンビニもあり何と言っても食事をするための店にはまったく困ったことはなかったのです。もちろん飲み屋もね。

そしてこのアパートが山手線の内側で東京駅からは15分、池袋からは1駅ということもあったと思います。当時勤めることになった会社の同僚や先輩はみんなこのアパートに遊びに来てくれました。今では信じられないのですが、池袋で飲み会があった帰りにこの狭い部屋に6人で雑魚寝したこともありましたし。気取らない街並みが良かったのでしょう。近藤という友人は夏に銭湯からアパートへ帰る時トランクス一丁で堂々と帰ってきましたから。

僕は12月には終わるアルバイトの傍ら、新しい就職先を見つけプログラマーとして働くことになりました。就職が決まって会社に通うようになってからは、友人や先輩に恵まれて今思うと夢のように楽しい暮らしが続きました。1週間に1度は葛西にある会社の寮へ行き同期の連中と馬鹿騒ぎをしたり、恵比寿にある先輩の竹尾さんの家にも1週間に1〜2度泊まるという自由を謳歌していました。もちろん新大塚荘の僕の部屋に来たことがない同僚や先輩はいなかったほどでしたし。

暫くして会社にある音楽サークルに所属して、もう一度音楽を始める事にもなったのです。

それから1年して姉から連絡があり僕が住めるような部屋が見つかったので引っ越すことになりました。これも新大塚で実は姉の部屋から二つ隣の部屋でした。

この頃の引越しはのどかなもので新大塚荘から歩いて4分でしたから殆どの荷物は近藤が一緒に運んでくれて、手では運べないものについては竹尾さんが車で運んでくれたことを覚えています。

新しい部屋は「能登ハイツ201」。新大塚駅までは4分。護国寺駅までは7分という交通の便がいい部屋で、事あるたびに新大塚駅にある居酒屋「北海から来た男」に友人や彼女、それに姉などと同行し、楽しいひと時を過ごしました。
この店は魚から野菜に至るまで全ての素材を北海道から空輸で取り寄せている。焼き物は全て目の前で炭火焼にしてくれ、特にお勧めは石狩鍋とホッケで一度食べると他の店では同じ品をたのめなくなるほどだ。
店内は黒炭の板張りの壁にやわらかい照明が灯されていて昭和の雰囲気を彷彿とさせる造りになっていて、流れている音楽も昭和歌謡のみと徹底している。
先日も由井さんのライブの後に飲み会をこの店でしたことがあったのだけれど、変わり続ける東京の街並みの中で、ここだけがまるでタイムマシンから降りたように僕が住んでいた頃と変わらないことに安心した憶えがある。


しかし、そんな夢のような季節の終わりはバブル崩壊とともにやってきて、勤怠が悪かった僕は会社をクビになったのです。これは自業自得で本当に朝夜関係なしに暮らしていた僕はちょくちょく無断欠勤を繰り返していたからです。殆どが曲作りのための徹夜が多かったからですが。

それでも、住居を移ることもなく僕は新大塚に住み続けました。

ところが、1995年阪神大震災があった年ですが神戸や明石の東部は壊滅状態になった時と同じくして3月にあの地下鉄サリン事件が起きたのです。僕はその時六本木のIBMに勤めていたのですが、その事件の次の日にクビになりました。もちろん僕がオウムと関係があったわけではないのですが。

度重なる転職ですっかり自信を失った僕は病気になってしまい、その年に実家へ帰ることになったのです。不本意なことですが完全に僕は鬱状態になっていたのです。

取り立てて東京に住むことに憧れもなかったので明石に帰ることは仕方なかったのですが、帰ってみてわかった事は東京と地方都市の文化の違いでした。

3年間廃人のような暮らしをしていた後、とりあえずもう一度情報処理の仕事に復活するためにMCPという試験勉強を始めました。そのためには1週間セミナーを受けなければいけなかったので再度上京したのです。試験が終われば帰省することにしていたのですが、MCPの試験には1発合格をしたので、姉の勧めで暫く東京で稼いでから帰れば、ということになり、とある会社の派遣社員として登録し東京で再度働くことになりました。

そしてまるでスゴロクの振り出しに戻る事と同じように偶然能登ハイツの前回と同じ部屋が空いたのでそこに住むことになったのです。

その時に勤めることになったのがライトウェルという住友重機の子会社でした。この会社は約3年勤めることになりましたが、この会社で一番良かったことは荒川さんとの出会いだったでしょう。荒川さんの勧めで派遣社員をやめてライトウェルの正社員になるよう手続きをしてくれたのです。ただ、正社員になるということは当時(今でも)の僕としては受け入れがたいものだったのでライトウェルと直接の契約社員契約ならいいと返答しました。

この案は承諾されて登録していた派遣会社にはライトウェルから170万円を支払うということで円満転籍になったのです。

しかし、その後荒川さんはシステム開発について会社内と対立することになり、現在の会社ヒルティへ会社を移ることになりました。これは僕も薦めたことだったので、荒川さんが会社を辞めることになった時点で僕もやがて、ライトウェルを去ることを心に決めていました。

ライトウェルでの最後の仕事は半年遅れで進んでいなかった神奈川県の湘南台IBM工場の原価生産システムの開発。この仕事のため結局3ヶ月にわたりIBM工場近辺のビジネスホテルから職場へ通うことになりました。朝8時半にタクシーで工場の開発室へ行き午前2時にタクシーでホテルに帰るという過酷なスケジュールでした。その時の仕事では残業代を含めると月収は100万円を超えていましたから。結局この仕事は成功し無事リリースできたのですが、あまりにも過酷な仕事で私生活もままならないため充電期間として仕事から暫く遠ざかる道を選びました。それからこんな状況下で僕自身日曜日に通っていた新宿のソングライティングの先生からの薦めもあって四谷コタンでライブをすることになりました。

初めてのライブは前述したシステムの最終テストが完了した次の日。そして、僕は会社務めを1年間やめる事にしてライブ活動や自宅レコーディングをする為に四谷へと引っ越したのです。

こうして僕の新大塚での生活が終わったのですが、今思えば新大塚での暮しは僕の人生で一番楽しかった頃かもしれません。だから今でも新大塚は僕にとっては第二のふるさとになっているのです。