8月31日火曜日

午前中はブックスの町を彗ちゃんが案内してくれた。もちろん龍人もいる。

最初はブックスの城へと連れて行ってもらった。その付近は観光地になっており、城に隣接して昔のままの街並みが保存されている。
その小高い丘からはブックスの街並みが見える。



城の中に入ってからだが龍人の様子が少しおかしい。普段なら所かまわず騒いでいるのに小さな声でしか喋らないのだ。事情はわからないが僕等にも小さな声で話せと言わんばかりの態度だった。きっと自分達しかいない薄暗い部屋の中が幽霊屋敷にでも思ったのだろう。




城を出てからブックスの中心街へと向かった。

その後、街の中心あたりにあるCOOP(日本でもおなじみの生協)でしんぺいちゃんから頼まれていたチーズを買うために量り売りコーナーに連れて行ってもらった。

彗ちゃんは流暢なドイツ語でチーズ売り場の店員に何かを語りかけた。

どうやら「一口試食をさせろ」と言った様だ。

店員は一口サイズのスプリンツを差し出し、僕等は納得した。なるほど濃厚な味である。

とりあえずスプリンツを1キロ包んでもらった。

その後、ボルビックと龍人が飲むための炭酸入りの水をカートに入れレジへと向かった。

(スイスでは黙って水を注文すると炭酸入りの水が出てくるのが普通だそうだ。)

COOPを出た後、慧ちゃんは別のスーパーで立ち寄り、いかに日本の食材が手に入りにくいかを説明してくれながら買い物をした。

 

ブックスの街を散策後、12時前に帰宅し慧ちゃんは昼食の準備を始めた。

12時になると荒川さんが帰宅した。

荒川さんが勤めている会社ヒルティは1日8時間勤務すれば休憩を自由にできる。

しかも勤務先へは家から車なら5分で着く。

だから普段から昼食は自宅で取り14時にまた出勤するのだそうだ。

東京では考えられない合理的な贅沢だろう。

 

午後からは慧ちゃんと龍人と3人でバスに乗りリヒテンシュタイン公国の首都ファドゥーツ(Vaduz)へ行った。というか連れて行ってもらった。

リヒテンシュタインはスイスとオーストリアに挟まれたヨーロッパ第4の小国。荒川さんの勤めているヒルティの本社もこの国にある。

ファドゥーツの街は国王が住んでいる城を望む麓にあり、郵便局前のバスターミナルを中心にして500m以内だから、徒歩でも充分回れる。

慧ちゃんは「美術館に入る?」とか言ったが僕自身勉強不足であまり興味が無かったこともあり、街を歩きながら最近家族で来た祭典の時の話などを聞きながら街を散策した。

一通り街を散策していた時、慧ちゃんの友人が勤める土産物屋の中で龍人が「アイスクリーム食べたい」と言ってぐずりだしたので、すぐ近くのオープンカフェで一服したのだが、対応したウェイトレスがとんでもなく愛想悪かった。

慧ちゃんは龍人の手がかからなくなった後のことについてどうするか悩んでいる。さっき入った土産物屋でアルバイトしている慧ちゃんの友人は主婦の傍らその店で接客しているが、元は大学教授だそうだ。現在の環境では仕事を見つけることも大変なのである。慧ちゃんもいずれこの土産物屋か、そのすぐ近所にある高級時計店でアルバイトをするかもしれないということを荒川さんに相談したことがあったらしいが、荒川さんは「できれば高級時計店の方がいい」と言ったそうだ。でも僕としては、慧ちゃんの母国語である中国語は言うまでもなく、日本語とドイツ語を喋れ、日本にいるときはSEをやっていたキャリアがあるので非常にもったいないと思った。アイスクリームを食べれた後の龍人は非常にご機嫌で、僕らが話している最中も僕の背中側の柱に隠れたりたりして「おにいちゃん」と呼ぶと返事をする僕を何が面白いのか「キャッキャ」と言いながら楽しんでいた。

夕方になって僕等はバスターミナルから家路についたのであるが、隣に乗り合わせていた女子高生が訳の分からない言語を喋る僕らを見て、まねなどをし口汚く友人に言っていたらしい。慧ちゃんは「こういう悪ガキは無視したほうがいい」と黙殺した。


ファドゥーツの途中での龍人


 

午後6時過ぎに荒川さんが仕事から帰宅した。

帰宅早々、荒川さんは「外はまだまだ明るいのでハイジランドに行こう」と言い出した。

去年僕が有線放送でやっていた「アルプスの少女ハイジ」を観て、スイスに行ったならデルフリ村に行きたいと書いていたことを憶えていてくれたのだ。しかしデルフリ村は創作上の話に出てくるだけで現実には存在しない。

ハイジランドはヨハンナ・スピリ原作「アルプスの少女」の舞台として設定されたところでブックスからは車なら30分程度で着く。夕食の準備がある慧ちゃんは残り、いーちゃんと龍人も一緒にハイジランドへと向かうことになった。

ハイジランドの入口に着いて、笑わせてくれたのは案内の看板。ドイツ語と英語と並んで「ようこそハイジランドへ」と日本語も書かれている。時間も遅いので「アルムの家」へは行けなかったが、冬に過ごしていた設定になっている「ハイジの家」には行った。あいにく5時で見学を終了してしまうので、中には入れなかったが窓から部屋の中が見え、チーズを作るための大鍋なども見えた。


ハイジの家


案内所も閉まっていたのだが説明書きによると神戸の六甲山と姉妹提携しているらしい。

僕は20代の頃に六甲山のYAMAHAのロッジでアルバイトをしながら住んでいたこともあるのだが、当時そんなことは一度も聞いたことがなかった。

案内所の横には小さな牧場が在って山羊たちがいた。1匹の子山羊が僕等の方へ近づいてきて柵の間から口を覗かせてきた。荒川さんが龍人に「草を食べさせてやったら」と言ったので龍人は恐々と足元の落ちている棒状の枯れ草を差し出した。子山羊は当然のようにそれを口に銜え器用に頬張った。

僕等の足元にはとても食べられないだろうと思われる木のような枯れ草が1本落ちていて僕がそれを差し出したのだが子山羊は何の躊躇も無くそれも食べてしまった。


龍人(ハイジランドで) いーちゃん(ハイジランドで)


日も暮れてきたので僕達は車へと向かった。帰路に着く途中ライン川上に架かる車道の橋の隣にマジソン郡の橋のような屋根つきの橋があった。荒川さんは川縁に車を止めてその橋の中を歩き出した。ちょうど橋の真ん中あたりで止まり、荒川さんは「これこれ」と言って板にかかっている文字盤を指差した。それは川の上がスイスとリヒテンシュタインの国境であることを表していた。

車に戻った時、荒川さんが「国際免許証も持ってきたんだし運転してみます」と聞いてきた。

僕は少し戸惑ったが「いいんですか」と言いつつ、これもいい経験とばかりに運転席に座った。

座席を変わって発進すると、いーちゃんが不安げに「どうして運転かわるの」と聞いてきたが、僕は運転で精一杯、荒川さんはただただ聞き流していた。顔には出さないが荒川さんも不安だったのだろう。

以前イギリスに滞在した時も車は運転したがイギリスでは車線も座席もまったく同じなので不安はなかった。しかし大陸では車線が日本と逆で、しかも初めての左ハンドルでもちろんギアも左。それだけならいいが方向指示器とワイパーまでもが逆なのである。さすがにブレーキとアクセルは世界共通なので、なんとかなったが、右左折する時には、はめられたように方向指示器とワイパーを間違えてしまった。

荒川さんからは「予想通りの反応をしてくれて面白かった」と言われて笑われてしまった。

ヨーロッパの町外れの交差点では信号が無い。そのかわりラウンドアバウトと言って、交差部分がロータリー状になっている。ラウンドアバウトでは左から来る車が優先になり車が来なければ止まることなく進んでいける。大変合理的な考えなのだが何故日本では普及しないのだろうかと思う。

車は無事に荒川宅の駐車場へとたどり着いた。

 

午後11時頃、慧ちゃんは対象が悪い中、僕の案内と龍人の世話で疲れてていたのだろう、先にベッドルームに入って就寝した。

僕が起きていると荒川さんが「何か飲みます」と聞いてきた。

「いやいいですよ」と言ったが荒川さんは「ビール」「ウィスキー」「ワイン」と立て続けに聞いてきた。

僕は「ワイン」と言われた時に「いいですねー」と言ってしまった。

「よし」と言った後、荒川さんは早速保管しているコレクションの中から赤のフランスワインを選択し、月曜日にフィエーチェへ行った際に途中で車を引き返してまで買ってきたチーズをつまみとして「ゆんたく」(沖縄弁で言う雑談会)が始まった。

そういえば荒川さんがスイスへ行ってからこれまでのことをゆっくり詳しく聞いたことがなかった。

 

荒川さんがドイツのサウナ風呂へ行った時の話を同僚にしたところ「お前面白い奴だな」といわれ、それ以来同僚と打ち解けるようになったことを聞いた。

それはドイツのサウナ風呂へ初めて入ったら、若い女性も含め男女混浴だった時のこと。

最初は戸惑ったが気にしないフリをして座っていると、隣に座っていたおばさんが「お前英語はできるか」と聞いてきた。荒川さんが「OK」と言ったら、そのおばさんが「お前の持ってきたタオルは短すぎる(so short)。それでは火傷するぞ」と言われた。確かに周りを見てみるとタオルは荒川さんのだけso shortだった。でも、so shortがいちもつのことでなかったので良かった。

と同僚に話したことだった。

 

それから、僕が「東京育ちの人は星座を知らない人が多い」という話をしていると、荒川さんは「夏はさそり座、冬はオリオン座・・・」などと、やけに星について詳しく話し出した。

いくら好奇心が強い博学の荒川さんでも「何故そんなに詳しいのか」と聞いてみると、どうやら高校時代に天体観測部にも入っていたことを初めて聞いた。「にも」というのは、荒川さんが野球部だったことは聞いていたが天体観測部も掛け持ちしていたことは初めて知ったからだ。

その高校時代の話だが

「お前野球部だったな。それなら望遠鏡を担ぐのは大丈夫だろう。」と言われ20キロもする望遠鏡をかついで大菩薩峠に上ったらしい。その時に真昼のような流れ星の閃光を観たのが今でも忘れられないというのだ。

そんな話をしながら午前2時頃になって、荒川さんが結婚式の時のビデオで僕がスピーチをしたところと「青春の影」を唄っている場面を見せてくれた。

僕はその時のことを今でもはっきりと覚えている。荒川さんと慧ちゃんが結婚することを決めたのも二人が日本を離れることが決まったからだった。結婚式の前に「式のトリで唄を唄って欲しい」と頼まれていたのだ。

僕にとってはこれが最後になるかもしれないと思い、最高のコンディションに持っていくよう練習したものだった。

この時の僕は唄うことを諦めようとしていた。何もかもに疲れていた時期だった。事実、荒川さんの結婚式の次の日のライブを最後に、3年間音楽を封印してしまったのだ。

その時のことや

ライトウェルで出会って一緒に仕事をしたこと

荒川さんを夜遅くまで引きずりまわして慧ちゃんと喧嘩をしたこと

いーちゃんと板橋の家で遊んだこと

など思い出されて目頭が熱くなってしまった。

「荒川家は僕にしてみれば人生の中で特別な人たちには違いない。」

心からそう思った。

そして今もそう思っている。

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