104日水曜日   松本城と草津温泉



朝の上高地バスターミナル

次の日朝食を摂って荷物をまとめチェックアウトをし、宿を出た。

その足でバスターミナルへ向かったのだけれど朝早いせいか人影は少なく、程なくしてシャトルバスに乗り込んだ。



シャトルバス車窓からの穂高連峰

帰り際に車窓から観た風景も1泊すると愛着が湧いたせいか親しみを持って美しく観えた。

ほんの少しだけだったけど都会で人にまみれて暮していると、たまにこんな環境に身をおかないと大切なものを見失ってしまうのかもしれないと思った。

そんなことを感じながらバスはすぐに沢渡についたのだけれど、この日の昼間の予定を決めていなかった。ただ選択は2つ絞っていて第1案が白骨温泉に寄る事、第2案が松本城を見学することだった。



お堀端からの松本城天守閣

しかし第1案についてはその後草津温泉に行くので却下し、とりあえず松本城へと車を走らせた。8年前にも同じようなひとり旅で訪れた事があるのだけれど、その時は城に着いたのが午後430分前で慌しく写真だけを写して通り過ぎただけだったから歴史的感動もなく後悔していたのだ。



入口側から見た松本城天守閣

今回は
10時頃に着いたのでゆっくり見学できる。それに今回は城内にボランティアで解説してくれる人達がいて、非常に興味深い話を聞かせて頂いた。

日本には現存の城は少なく、国宝指定されているのは僕の地元に近い世界遺産の姫路城を除いては犬山城、松本城、彦根城しかない。僕が松本城で一番不思議に思っていたことは平城でありながら建築様式は黒塗りの壁であることだった。本来日本の城は戦国時代の山城に始まり安土桃山時代初期には姫路城のように平山城(丘の上の城)になり関が原の合戦前後には合戦目的ではない平城になっていく。そして城壁は秀吉時代には黒塗りが多く、江戸城が建てられた頃から白塗りになっていく。(余談だが現在の大阪城は江戸時代に建てられたものを復元したもので大阪夏の陣で焼け落ちた秀吉時代の天守閣とは全く別物。秀吉時代の天守閣は内堀に隣接した天守台にあって城壁は黒塗りであった。)しかし松本城は秀吉時代に建てられて黒塗りであるのだが、完全に平城である。もともとこの地は武田信玄が松本城下の整備を始めるまで松本の4方向に砦があったらしい。が肥沃な盆地である松本にその砦を集約して今の場所に築かれたのがその始まりだそうだ。その頃松本は深志と言われていた。松本と名前が改められたのは本能寺の変後で、もともと武田氏が領有する前の領主であった小笠原氏がこの気に乗じて改名したそうだ。また何ゆえ黒塗りであるのかについては現在の天守閣建立が丁度安土桃山時代で、もともと徳川家の譜代であった石川氏が秀吉時代に大阪城に対抗するため黒塗りにしたのだろうという話だった。(この頃、石川氏は秀吉の家臣であった)それゆえ大阪城に負けないくらいの堀もあったのだ。天守閣内に入ってもわかることだが、この城は完全に戦時を想定した守りの城であり、一部を除いて合戦時の合理的な理由で構成されている。一部といったのは月見櫓のことで、朱色の回縁(バルコニーのようなもの)が着いている箇所の櫓である。月見櫓が増設された目的は3代将軍徳川家光が善光寺参りをする際に道中の接待をするために造られたらしい。なので大天守閣小天守閣に付随しながら部屋の中は完全に風通しが良い全開の窓になっており石落しなどの軍備構造が一切ない。しかしそういう目的で造られたにも関わらず天候悪化で家光が松本に立ち寄る事はなかったとのこと。このあたりの説明を聞かないとこの城の神秘性は解らないだろう。

もうひとつ聞いてみて興味深かったのは昭和の大修理に繋がる話だった。月見櫓の中にその理由をしめす写真が飾られていた。1868年の明治維新で、各地の城郭はその役割が大きく変わった。 新政府は再び内乱が起こるのを防止するため、廃藩置県の前年廃城令を出し不満を持つ武士たちの心の拠り所ともいうべき城の破壊を実施したのである。松本城もその例外ではなく天守も売却・破壊の運命にさらされたのだが天守が競売されたのを憂いた市川量造らが困難のなか天守を買い戻し保存貢献したとのこと。しかし城というのは家と同じでメインテナンスをしないと荒廃してゆくばかり。実際松本城も石垣などが風化したりで修繕しなければならないことになり小林有也らが天守保存会を設立して11年がかりで明治の大修理を終え、天守の倒壊の危機から救ったのだ。しかし、その後日本が戦争へと突入していく中でまたも荒廃が進み大天守閣は1度傾いた状態になっていたのだ。そして戦後GHQの査察団が松本城の建築様式美に感動して大天守閣とそれをささえる石垣の修復をするため昭和の大修理を政府に命じて修復し現在に至るのである。昭和の大修理はこの松本城を終えた後に姫路城も行うのであるが、それは本当に大変な作業で城の建造物は全ていったん分解してしまう。そして腐敗の進んだところなどを修繕し、再度組み立てるのである。そういった意味で5重以上ある大天守閣を持つ現存の城は姫路城と松本城しかないのだ。余談だが今見られる大阪城や名古屋城は完全に鉄筋コンクリート造りで昭和に建てられたものだ。東京から日帰りでいける小田原城にいたっては、設計図も残っておらず、推定の設計で復元されたものらしい。

これらの話しは解説員の人に伺った話なのだが、歴史的建造物や博物館の見学は実際の建造物や資料を前にして話しをしてくれる解説員やガイドの人がいるだけでこれ程興味深く観覧ができる。このあたりも有料であったとしてもケチらないほうがいいということを再度確認できた。

天守を見終わった後隣接する松本市立博物館へも行ってみた。ここの入場料は城の入場料に含まれていて大人600円だ。

ここはさして興味深いものはなかったのだけれど、松本市の地図を見て乗鞍も上高地も白骨も安曇地区という市内であることを初めて知った。松本市は本当に広いのだ。

城内を出たのが午後1時くらいで昼食を摂るためそば庄松本城店で天ざる定食1,800円を摂った。蕎麦の麺は細く喉越しがいい。それにてんぷらも注文後しっかり揚げられていてさくさくしている。そして炊き込みご飯も秋の香りがする美味だった。

その後時間も時間なので松本を出発し今日の宿がある草津を目指す事にした。

松本から草津へはいろんなルートがあるのだけれど一番妥当で迷わないルートとして松本インターから長野道に乗り千曲市のジャンクションで上信越道に入り上田菅平インターで高速を降り、国道144号〜145号を経由する道を選んだ。



地酒真澄

インターを降りた後、国道144線沿いの酒屋で、この日の夜に飲むための地酒『真澄』とちょっとした乾き物を買い込み草津へ向かった。草津についたのは午後4時頃。この日の宿であるアゼリアは食事のサービスもなく素泊まり専門のペンション。館内に入ってみると味も素っ気もない造りなのだが、部屋の中は改装し立てで畳の井草の臭いが香るほど綺麗な和室だった。それと地下にある温泉には24時間入れる。
車を駐車場に止めなおした後、部屋に入って荷物を下ろしおもむろにテレビをつけてみた。草津では地上波の
9chで草津専用放送を行っており結構参考になる。特にコマーシャルが役立つのだ。実際後で書くが次の日の朝食を摂る場所もこのテレビで見つけた。



草津温泉湯畑

荷を降ろし一服した後、次の日に行く予定の場所を確認するためと夕食を買い込むため散策にでることにした。ペンションの同じ敷地内にはコンビニのSAVE ONが併設されていて食事はここで買い込めとの但し書きがある。しかし物色してみるととても地酒に合う夕食に適した品は置いていない。仕方なくここでの調達は諦め湯畑がある中心街まで足を伸ばすことにした。草津には20代の頃スキーの帰り道によく立ち寄ったがそれは大滝乃湯へ行くためだった。今回もここの温泉に入るのが1番の目的だ。まずは中心街である湯畑を経由し大滝乃湯を目指したが、道1本間違えてまったく逆側へ歩いていることがわかった。仕方なくもう一度湯畑に戻ったのだが、どうも道が思い出せない。



草津散策時の紅葉

以前は車でしか行った事がないので、歩いてみると方向感覚がつかめないのだ。まー兎に角そんなに広いエリアでもないし街並み自体が情緒のあるところなのでこんな散歩も悪くないと思い午後の草津を歩いた。その途中では写真にあるように紅葉がかっている場所もあった。


湯畑界隈の夕景1

湯畑界隈の夕景2



陽も暮れてしまい仕方ないので湯畑で一服し、夜の湯畑を眺めた後、ホテル一井の土産物売り場で大滝乃湯の場所をたずねてみたら、解り易い地図をくれて教えてもらった。実際その通りに歩けば辿り着けたのだ。それから大滝乃湯に程近い次の日に朝食を摂る五郎次にも入ってみて、モーニングサービスの時間帯と明日もやっていることを確認した後、夕食食材探しを始めた。しかしこれが大誤算。中華料理屋とか東京でも食える店はあるのだが郷土料理の店がみつからない。しかたなく現地の人が通うであろうスーパーによって山の中の温泉地ならではの惣菜を物色した。しかしここで入手できたのはキノコの和え物だけ。結局帰り道にあるセブンイレブンでおでんを買って宿で夕食を摂ることとした。

宿について一風呂浴び浴衣に着替えて晩酌をしていたら、かなり疲れていたのだろう。午後8時までには寝てしまった。

 


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